フェミニスト・シティ
ToC
男性基準で計画された都市で、女性たちはどう生きのびてきたか。なぜ、ベビーカーは交通機関に乗せづらいのか? 暗い夜道を避け、遠回りして家に帰らなければならないのはどうしてか? 女性が当たり前に感じてきたこれらの困難は、じつは男性中心の都市計画のせいかもしれません。都市に組み込まれた社会的不平等を明らかにしながら、だれにとっても暮らしやすいまちづくりとはなにかを考える。イントロダクション:男の街女は厄介者都市について書いているのは誰か?
自由と恐怖フェミニズム地理学について
一章:母の街フラヌーズパブリックなからだ女性の場所都市という難所母親業のジェントリフィケーション性差別のない街とは
二章:友達の街友情に生きるガールズ・タウン友情と自由クィア女性の空間死ぬまで友達
三章:ひとりの街パーソナルスペースおひとりさまひとりでいる権利公共空間の女尾籠な話女が場をもつこと
四章:街で声を上げること都市への権利安全をDIYするアクティヴィズムにおけるジェンダーアクティヴィストの旅行動が教えてくれるもの
五章:恐怖の街恐怖心の正体危険の地理恐怖のコスト押し戻す方法女の大胆さ交差性と暴力
あとがき:可能性の街
読書メモ
都市はあなたたちの場所ではないというメッセージ p19
私たちの都市は石やレンガやガラスやコンクリートに刻まれた家父長制である。 p24
ドロレス・ハイデン 場所の力で有名な人だな。フェミニストの建築家なんだ。
人文地理学から人間の半分を排除しないこと
ボードレールやベンヤミン、ジンメルのような存在が想定する都市生活者フラヌールは男性である。
インターセクショナリティ理論はいまいちよくわかってない
女性はジェントリフィケーションの受益者だ。ウィニフレッド・カランはそう指摘する。
著者はそう思わないようだ。ジェントリフィケーションは、子育てのジェントリフィケーションと両輪で進んできた。子どものためのサービスを効率的に活用し、「徹底的な子育て」に従事する。「徹底的な子育て」とは、「子どもを最優先し、専門家の助言を仰ぎつつ、関心や労力や資金を集中的に投入する」こと。それが母親に求められるようになった。
集住。女性同士で助け合うこと。黒人女性。
フェミニスト・シティは物理的、社会的いずれの障壁も取り払われたものでなくなければならない。そこではどんな身体を持つものでも歓迎され、受け入れられなければならない。またケアを中心に計画されたものでなければならない。それは女性がケア労働の主体にとどまり続けるためではなく、都市にはケア労働をもっと公平に分かち合うポテンシャルがあるからだ。そしてフェミニスト・シティは女性たちが都市の空間の中にはみ出し、これまでずっと活用してきた。相互支援の創造的なやり方に目を向けなければならない
p80
郊外の妻は地獄。一日中家の中。ベティ・フリーダンの指摘。反フェミニズム運動としてのトラッドワイフ - Wikipediaには、こういう文脈もあるのだろう。
バッド・フェミニスト 読みたい。ナポリの物語も読みたい。
少女のカルチャーは、ベッドルームの内側にとどまっているという通念を再生産している。パジャマパーティー!みたいな描写も。p91
都市計画において、若い女性が必要とするものが考慮されることはほとんどない。
ガールズタウン、フォックスファイア。反家父長制映画!?
カネを使わないと休めないジェントリフィケーション空間では、人間の交流は損なわれる。
「ヘッドホンをしている女に話しかける方法」PUAや恋愛工学的だ。
ジェイン・ジェイコブスの「街路に目が光っていること」は、マイノリティーには適応されないようだ。
アニータ・サーキジアン、リンディ・ウエスト
セックス・ウォーズアンドレア・ドウォーキンやキャサリン・マッキノンによる反ポルノ運動と性の解放に肯定的な第三波フェミニズムの対立。セックスワークはワークなのか?
夜を取り戻せデモ
デモにおけるホワイトウォッシュの問題。
女性の恐怖心のパラドックスプライベートな空間で被害に遭うことが多いのに、より恐怖を感じるのはパブリックな空間であること。そもそもプライベートな空間でも安全だと感じていないのでは?恐怖心による女性の行動の操作、支配があるのではないか。家父長制への依存を強めるための。
カーセラル・フェミニズム投獄によるフェミニズム。警察、司法に依存したやり方でジェンダーに基づく暴力を防ぐという考え方。女性の一部は安全になったと感じているが、有色人種の女性は不平等性を強く感じている。安全という名目で、官憲による強権的な施策を正当化する。
サミュエル・ディレイニー 作家
感想
なんとなくで借りたがいい本だった。都市を考えるうえで、女性は往々にして排除されていた。都市はコンクリートやレンガに刻み込まれた家父長制なのだ。まず都市の生活者として認識されていない。エレベーターや授乳室など、女性が必要とするものは後回しにされる。著者は妊娠中の女性、一児の母として、街を歩いた経験からそうのべる。女性の排除はハード面だけではない。ソフト面、ここでは考え方もそうだ。危険とされる場所に入った場合、何があっても自己責任だという被害者非難が、行動を制限する。ある調査によると、女性にとってパブリックな空間はは恐ろしいものだという。実際に危険なのはプライベートな空間(家など)であるにもかかわらず。著者はここに、女性を都市から締め出し、家庭に閉じ込めようとする家父長制の影響をみる。青春映画でよく見るパジャマパーティーのシーンも、この考え方を再生産しているという指摘には感心した。フェミニズム運動はさまざまな権利を獲得した。だが都市にひそむ家父長制の排除には至らなかった。それはなぜか。それまでのフェミニズムにはインターセクショナリティの視点が欠けていたからではないか?みずからもアクティビストとして、いろいろなデモに参加してきた著者は問う。自由に夜の街を歩く権利を取り戻すために行われた、「夜を取り戻せ」デモの現場でみたセックスワーカーやトランス女性への排除。地域のジェントリフィケーションで得られた安全を享受する白人女性と、「場にそぐわない」ものとして監視の対象となる有色人種の女性。さまざまな属性とその組み合わせがいろいろなかたちの差別としてあらわれる。この事実を無視してこれからの社会運動は行えないだろう。著者はフェミニスト・シティ実現のための具体的な施策は語っていない。だが、以下の文はそのマニフェストといえるだろう。
フェミニスト・シティは物理的、社会的いずれの障壁も取り払われたものでなくなければならない。そこではどんな身体を持つものでも歓迎され、受け入れられなければならない。またケアを中心に計画されたものでなければならない。それは女性がケア労働の主体にとどまり続けるためではなく、都市にはケア労働をもっと公平に分かち合うポテンシャルがあるからだ。